【田村の三宝柑の歴史】 江戸時代、文政年間(1818〜1829)に偶然的に和歌山城内で発生したものです。非常に珍しかったので、藩主徳川治宝に重宝がられて門外不出とされました。そして、例年神前などへのお供え用の器である「三方」に載せて城主に献上したことから「三宝」という名前になりました。 明治年間になり、門外不出の掟が破られ民間でも栽培されるようになりました。田村の地域は、冬も温暖な気候で栽培の適地として、芳香、美味の三宝柑が産出されています。 春麗の三月桃の節句には、おめでたいネーミングの「三宝柑」をお雛様にお供えして、子供の健やかな成長を喜ぶ慣わしが今でも残っています。 | ▲みかんのことが勉強できる「有田みかん資料館」へもぜひ行ってみてください。 |